これまで長い時間をかけて、ベタ組みに則しながら日本語組版についての考察を重ねてきました。そこで見てきたものは、現在、主として使われている日本語書体が正方形のなかに最適化されるようにデザインされてきたこと、日本語組版においては組版濃度を一定にすることではなく、むしろ濃度差を確保することが、記号類・約物類が果たす文章構造の視覚的明示性を高め、結果的に「読みやすさ」につながるのではないか、というものでした。

ここで述べてきたことは、唯一絶対のルールを定めるためではなく、あくまでひとつの基準、出発点としてのスタンダードな組版のあり方を示すためのものです。そうしたことに取り組もうと考えた動機は、日本語組版において明確なルールが存在しないことにありました。

いま、日本語書籍・雑誌のデザインは大きな転換期にあります。電子媒体の台頭に伴い、そのあり方に変化が生じてきているからです。変化があること自体は悪いことではないのですが、こと日本語組版に関してはそうとも言い切れません。かつて金属活字から写真植字への移行期、組版を担当する現場の人間はそれまでの経験豊かな技術者から、新しい技術に親しむ若い技術者へと一気に代わりました。その結果、それまで職人たちの現場で培われてきた暗黙のルールとしての組版技術の断絶が起きました。同じことは写植からDTPへの技術転換でも起きています。

電子媒体の登場は、グーテンベルクによる活版印刷の実用化以来、最大級の技術革新です。この新しい技術を直接的に担う人びとが参照可能な日本語組版のマニュアルを用意しないと、また技術の断絶が起きてしまうのではないか----そんな危惧がありました。

そのためにも、現行日本語組版が拠って立つ理屈を明確にしておきたい。比較するのもおこがましいですが、敢えて言うなら、かつて鈴木一誌さんが「ページネーションのための基本マニュアル」を公開したのと同じような危機意識を抱いていました。

つまり、明確にしたいのはあくまでスタンダードとしての組版であって、ルールとしての組版ではありません。ルールを踏まえてそれをいかに突破していくかが、これからの日本語組版のノーマルを考えるとき必要になるでしょう。

祖父江版『心』の組版

昨年11月、岩波書店から夏目漱石の『心(こころ)』が刊行されました。帯には「ほぼ原稿そのまま版」とあります。デザインされたのは祖父江慎さんです。祖父江さんと言うとエキセントリックなデザインを連想される方が多いかと思いますが、実際には非常に論理的で真っ当なデザインをされています。ただ、その真っ当の突き詰め方が尋常でないため、「普通」ではない造形が実現されるのだと思います。

『心』の組版はその最たるものでしょう。帯文句の通り、この『心』は漱石の自筆原稿を活字組版で再現したものになっています。再現にあたり、原稿を分析することはもとより、それを書籍組版に落とし込むためにどのような基準に基づき、なにを配慮したのかが、巻末のデータページにまとめられています。これを見れば、祖父江さんがいかに理論的なデザイナーかは一目瞭然でしょう。

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組版上で注目したいのは読点とカギ括弧の扱いです。巻末には「原稿では用紙のマス目とマス目の間に記されていることを踏まえ、半角処理での文字組とした」とあります。祖父江さんは字間をアケてそのなかに読点とカギ括弧を入れるのではなく、半角のアキを無くすことで組版処理をしたのです。

祖父江さんの目的は、自筆原稿そのままの組版を実現することで、可能な限り漱石が原稿を書いていたその息づかいを、書籍ページのなかによみがえらせることにあります。それは工業製品として「書籍」として結実する著者の身体性を、活字を通じて再度受肉させる行為とも解釈できます。

祖父江さんはもちろん日本語組版の基本的なロジックを理解されています。ですから字間をアケてそのなかで読点とカギ括弧を処理することもできたでしょう。しかし、そうしてしまったのでは『心』の刊行当時の版を再現することは出来たとしても、自筆原稿を再現することにはなりません。

こうしてほぼ漱石の自筆原稿に近い版が実現されたわけですが、ではその結果はどうでしょう。たしかに版面から漱石の息づかいは感じられるかもしれませんが、それが読みやすさにつながっているかどうかは疑問です。少なくとも他の本と比べてあきらかに読みやすい、とは言えないでしょう。

祖父江さんのデザインの主たる目的が読みやすさの実現にあるわけではないので、読みやすいかどうかを理由にそのデザインを批判したいわけではありません。ここではあくまでその組版効果についてのみ論じます。

そもそも現在の日本語活字とは、大量印刷のために開発された、効率化のための工業製品です。ベタ組みが優れているのは、それを正方形を積み重ねることで、特別な技術がなくとも書物のページを実現することができるからです。つまり活字が正方形であることが文字を組むことを容易にし、かつ読書における情報処理効果に貢献している(同一のリズムによる視覚処理)です。

その意味で、祖父江さんの『心』の組版は、生産的効率性や読書行為における理解促進を妨げないまでも、そこに貢献しているとは言い難いでしょう。同じことはオプティカルな組版についても言えます。

可能なかぎり肉筆に近づけた組版を目指すことも、オプティカルな組版を実現することも、どちらも悪いことではありません。むしろそうしたことを目指すのは、現状の日本語組版を刷新していく意味では正しいはずです。しかし本当の意味でオルタナティブな組版を目指すのだとすれば、従来のフォーマットである正方形から離れて思考・志向することが必要になるのではないでしょうか。

プロポーショナルなボディを備えた新しい書体

現在、私は友人のタイプフェイスデザイナーと一緒に、新しいフォントを試作しています。

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[プロポーショナルなボディを持った試作フォント デザイン:岩井悠]

この書体の特徴は、縦組みの書体でありながら仮名文字がそれぞれ固有のボディ幅を持っていることです。つまり正方形にデザインされていないのです。

かつて仮名文字がばらばらの大きさで書かれていたことはこれまでにも触れ通りです。日本語組版でオプティカルを目指すのなら、正方形の枠組みで思考するのではなく、そもそも異なるボディ幅の書体を作ればいいのではないか、そんな発想に基づいています。ボディは全角の8分の1を単位に構成されており、文字によって複数のボディ幅を持った異体字を設計することで、組版処理がしやすいようにしています。

実際にフォントを試作してみて気がついたことがあります。それは明朝体の完成度の高さです。

試作書体は丸ゴシック体を採用しています。当初、明朝体での試作を目指したのですが、明朝体のデザインにしてしまうと、どうしても正方形に近づいてしまうのです。これには驚かされました。正方形に最適化される過程において、明朝体は形が決定づけられ、洗練されていったことがまざまざとわかりました。

これが意味することは何か。正方形から離れるということは、まったく新しい文字のデザインを生み出さなければならない、ということです。試作に丸ゴシック体を採用したのは、文字の骨(筆脈のライン)のみを追いかけるのに便利な書体だったからで、新しい書体デザインを生み出すことは今後の課題でしょう。

もうひとつ気がついたことがあります。それはオプティカルなボディ幅を持つ書体をデザインしたからといって、それがただちに「読みやすさ」につながるわけではない、ということです。

たしかに仮名文字は本来そうであるべき文字幅を持っており、レタースペースだけを見れば、従来の正方形にデザインされた書体よりも均一なスペーシングが実現されています。しかしながら、それが本当に読みやすいのか。丸ゴシック体であることも影響していると思いますが、不安定な字送りのピッチと見慣れない組版表情がもたらす結果は、けっして読みやすいものとは思えません。

「読みにくさ」の科学

試作書体の組版、そして祖父江さんの『心』の組版、どちらも読めないわけではないけれど、そこには読みにくさが存在しています。では一体何が、私たちにその組版を「読みにくい」と感じさせるのでしょうか。試作書体の場合は字送りのピッチが一定でないこと、文字が見慣れない形であること、そして丸ゴシック体で組まれていること、祖父江さんの『心』の場合はカギ括弧と読点のアキがなくなっていることが、それぞれ読みにくい印象を与えています。

ということは、これらの問題を解決すれば、「読みやすさ」が前景化してくることになるのではないでしょうか。「読みにくさ」にリーチすることで「読みやすさ」が浮上してくるのです。

私は祖父江さんの試みも、また私自身が友人と試作している書体も、それが無駄だとは思っていません。日本語組版による表現を更新していくためには、書籍本文に身体性を顕現させる意志も、正方形から離れたところで思考する実験も必要です(だって、どちらもわくわくしませんか?)。しかし、いきなり新しい何かを生み出せるわけではありません。

これまでの記事で見てきたように、日本語の全角ベタ組みというメソッドは、明治の最初期から150年近い時間をかけて、方法論的にも書体デザイン的にも磨かれ続けてきたのです。それは非常に優れたシステムとして、現在も十分に活用可能なものですし、今後もその有用性がなくなることはないでしょう。

しかし、この道しかない、わけがないのです。日本語組版のことだけでなく、現在台頭しつつある新しい技術、新しい表現のためにも、選択肢はさまざまあってしかるべきです。そして旧来の技術と新しい技術が、互いを否定するのではなく、むしろ互いに資するためには、さまざまな試行錯誤を絶え間なく繰り返していくしかありません。

「読みやすさ」について言えば、その試行錯誤の過程で数え切れない「読みにくさ」に遭遇することでしょう。そのとき、読みにくいからその行為に意味がないと切り捨てるのではなく、むしろその読みにくさに近づくことで、従来の方式の優れた点に気がつき、新しい手法が乗り越えるべき課題の輪郭がはっきりとしていくのです。

ここにきて、読みやすさはその対極にあると思われがちな読みにくさにつながりました。私がこのテーマにはじめて取り組んだのは2006年頃のことです。ブックデザインの仕事に携わり、漠然と、けれど当然のこととして語られる「読みやすい」という言葉に違和感を覚えたことから、この言葉の領域を探る思考の旅が始まりました。

当初、私は読みやすさを読みにくさに対置されるものとして考えていましたが、この3年間の論考を経て、いまは読みやすさと読みにくさは相反するものではなく、互いに補い合うものとして作用し合っていると考えるようになりました。たとえば文字サイズを大きくすれば、たしかに個々の文字を認識しやすくなりますが、それは同時にページにおける版面面積を拡大させ、余白を圧迫し、結果として行長が短くなると組版上の破綻が発生しやすくなります。読みやすさを確保すると思って行った行為が、どこかで読みにくさを発生させるのです。

つまり読みやすさも読みにくさも、つねに一定であるのではなく、そのときどきの条件によって様々に織り成され、変化とともに表出してくるのです。そう考えるようになってはじめて、私はこの言葉が本当に意味するところに、少し近づけたような気がしています。

そしてこれはデザインに限ったことではありません。「読みやすさ」は「生きやすさ」、「読みにくさ」は「生きにくさ」として読み替えることも可能でしょう。誰もが生きやすさと生きにくさを抱えて、限りある時間を過ごしています。私たちはつい完全であること、完璧であることを、他者に、そして自分自身に期待してしまいますが、人間の営みはそう単純なものではありません。「読みやすさ」を科学することは、私にそうしたことも教えてくれました。

そうやって考えたとき、私たちは普段何気なく繰っている本のページの向こう側に、より普遍的な問題を読み取ることが可能になるのかもしれません。生きやすさも生きにくさも、どちらも豊かで魅力的な世界を。