幸せについて語り合っているうちに、なんだか幸せな気持ちになってしまいました...
私たちは人生が出した問いに答えることによって、その瞬間の意味を実現することができる(V・E・フランクル)
1.出会いの化学反応は本当にあった
ことばとからだ、集まった人たちの素材のみで成り立つカフェの初回は、夜空に星を探すような方向感覚にまかせてスタートしました。
まず、目指すのはことばの応戦ではなく、自分のデフォルトを耕すような、対話の可能性を探る場であること。気付きさえすれば、それはきっと構造材になるような大切ものなのに、日常の中でスルーしている感覚の種を探り出すこと。
それら漠としたものを求めての試行でしたが、いざ始めてみるとびっくり。たくさんの魅力的な方が集まって、あたたかいグルーブが生まれました。参加者たちが生の自分を持ち寄るだけですごいことになるという、魔法のようなパワーを実感することになりました。
当日は集まったみなさんで他方面の議論がテーブルごとに発展し、各々独自の発見を持ち帰っていただけたのではないかと思います。私も自らの気づきのあった方向に記録をまとめてみました。
2.幸福を感受するということ
当日、ゲストの雪下岳彦さんに提題いただいたテーマは「これからの幸せについて」。
雪下さんは大学時代にラグビーの事故で脊髄を損傷し、首から下の可動に困難を抱えることになりました。しかし、強い精神力で医師国家試験を突破し、いまは医師として活躍しています。
ままならない運命にときに翻弄されながらも、私たちはいかに幸福に生きることが可能でしょうか?
巷にあふれ、消費される幸福のイメージ。SNSはまるで競うような幸福な出来事が溢れているけれど、私たちは本当に幸福なのだろうか?
目指すものとしての幸福はどこかうそくさかったりするよね、という話しになりました。
幸福を感じる瞬間について、各々の体験と感情を大切にスキャン、検証します。
眠りに入るとき、大切な人と過ごすとき。猫を触るとき、大きな風景に包まれるとき、星を見るとき、紅茶の湯気が立ち上るのを見ているとき。また、過酷な仕事や運命を乗り越えたあとの至福、雨後に光る虹−−七色の贈り物の美しさを見るとき。
幸福とは報酬を求めなかった人々のところへくる報酬だ(アラン)
雪下さんは事故後、以前はあたりまえだと思っていたことにも幸せを感じるようになったといいます。
「僕は幸福の沸点が低いので(笑)、小さな幸福を大切にします」
この言にははっとさせられるものがあります。
かくいう私の片側の顔には、大きな絆創膏がはられています。実は交通事故に遭い、生死の淵をさまよって、やっと帰還したばかり。人の存在の息吹きが感じられるこのような場所を心から欲しているという事情がありました。私たちはすぐそばで生きていて、響きあうことができるのに、それをしていない。個別な運命をもって存在を深く共鳴させることのみが、ひとりひとりに課された生きることの痛み、その終わりを受け入れられるものにしてくれそうでした。
空の色と深さに。こぼれる光に。生き残ったことへの喜び、多幸感が日常のふとした瞬間に込み上げます。
寂光の中にも、感光の絞りをいっぱいに開いて生きること。光りへの感受性を高めること。
治らない傷と変形した顔。事故後、加害者への怒りに苦しみ、落ち込んだ時の私は、そんなことを考えていました。
「生きててよかった!」その咲いた花の芯、感情の固まりをこねたり、のばしたりして新しいかたちにして、何か最強のお菓子か、道具を作れないでしょうか、開かなかった扉の鍵のようなものを。
経験に裏打ちされた雪下さんの言は、闇を編み込んだ織物のように会場を静かに包みます。
そこへ入れていただいたのは会場からの絶妙の合いの手。
リチャード・パワーズの「幸福の遺伝子」を引用したお話。
いるだけで周囲を幸せに「感染」させていってしまう多幸症の少女が主人公なのだけれど、ある科学者がその少女が「幸福の遺伝子」をもっているといったことによって、大騒ぎになる。が実は、その少女はアルジェリア難民で大量虐殺を経験していたと。
最近「恐怖の記憶が遺伝する」というアメリカの研究チームの発表があり話題になりました。くり返される悲劇と、遺伝子レベルにも受け継がれていくかもしれない私たちの体感された歴史。幸福の遺伝子があるかは分からないけど、いま私たちは歴史の舵の一端を担っているのに、生命や平和の喜びを忘れ、日常に忙殺されるうちに、知らずまた恐ろしい出来事に加担しているかもしれません。
幸福とは態度である、といえるのでしょうか。
みなさんの対話を聴いていて頭の中にもやもや意識されたのは「幸福感受性」というようなものの存在。幸福感受性を高くして生きること。希望と絶望の果てにある、無為の存在の幸福を想いました。
3.ふつうのその先へ
場があたたまってくると、議論はさらに加速します。互いの存在を承認しあう場の大切さ、そしてなぜこのような生き死にや、人生の根幹に関わる価値観や、やわらかいナイーブなテーマについて日常は話さないのだろう、という話しに至りました。
異質なものは絶えず排除し平準化し、豊かで多様な表情を無化するのがまるで約束事になっているような一元的なシステムへの従属。私たちがもつ「ふつう」という感覚の厄介さについて、想いをめぐらせます。
震災後、人と関わること、コミュニティの大切さを感じるようになったという方。実際、被災地で行われた哲学カフェや、無為の人の集まりには、かなしみを力に変える涙と復興の礎があったのです。
幸福を分かち合うことはいかにして可能かという問いに対し、「このような場こそが、幸福のシェアシステムになっているのではないか」という意見をいただいたのはうれしかったです。
幸せについて語りあっているうちに、なんだか幸せになってしまった、そんな実感のある夜でした。
今後、さまざまな可能性に託されたこの空の場所は、ゆるやかにつながる開かれた場所を目指し、集まる人の熱によってのみ維持されていくでしょう。哲学にある超越性の場所を借りた、めくるめく創造性の実験。
どんなことが起きるのか、非常に楽しみです。
横溢は、ふつうなら訪れないような場所にわれわれを導く――サバンナの向こう、月、想像の世界へと。そして、仮に自分自身がそれほど意気盛んでない場合は、熱意あふれる人々の喜びに感染し、みなでさらに遠くへ行きたいという衝動に駆られる。(改)
(ケイ・レッドフィールド・ジャミソンーーリチャード・パワーズ「幸福の遺伝子」より)